第3期第6回:優秀作品


田中孝枝「課題A マームとジプシー『塩ふる世界。』劇評」

 やあやあ。お元気ですか。なかなか連絡もできず、ごめんなさい。8月に横浜で、マームとジプシーの「塩ふる世界。」というお芝居を観ました。それを観たら、あなたに連絡したくなって、これを書いています。お元気ですか。その後、どうですか。
 「塩ふる世界。」には6人の女の子が出てきます。はなこ、ひなぎく、ゆりすいれんたんぽぽふき。2学年が同じ教室で授業を受ける位に小さなその町で、幼馴染みの6人は互いの生理の周期を把握してしまう位、近くにいる。「6人しかいない」と言う状況は「6人でいるしかない」と言うことでもあるから、各々がその関係に辟易としているようにも見えるし、その変わり映えしない関係と日常に「嫌になっちゃう」と口に出すことだってある。だけど、ある日、ひなぎくのお母さんが海に身を投げて死んでしまった。1人になったひなぎくはこの街を去ることになった。
 物語は6人が海にやってきたところから始まって、その1週間に起こったことを少しずつさらっていくのね。ちょうど一週間前にひなぎくのお母さんは自殺して、役者は、その日から今日までに起こった事を何度も同じ場面とセリフを繰り返しながら演じていく。時々、情報が増えたり動きが変わったりもして。彼らはセリフを言いながら絶え間なく動き回るから、目に見えて疲弊していき、息も切れ、衣装も遠目でわかるくらい汗に濡れる。その隠しきれないほどの疲弊と、それでも演じなきゃならないという"必死さ"が舞台に奇妙なリアリティと重さを与えて、そこで起こっていることをひどく生々しく見せていた。しかも、動き回るのはもっぱらひなぎく以外の人達で「お母さんが死んじゃった」と言う意味では当事者の筈のひなぎくだけがあまり疲れた様子も見せない。それが妙に冷めて見えて、その対比は当事者と周囲であがく人たちの苦しみや悲しみが全く別のものだ、と言っているようにも思えた。
 その疲弊しきった状態で、はなこは「だって私達は安心な子供」と口にする。私は、ここで泣いてしまった。子供ってさ、他人との境界線が曖昧じゃない?自分が転んで怪我したわけでもないのに、目の前で友達が怪我して泣いたら一緒に泣くよね。もちろん、パニックもあるけど、ヘタすりゃ「痛いよ」って泣くよね。「転んだのおまえじゃねえだろ」って心の中で突っ込むけど、あれ、本当に痛いんだろうな、と思う。それまで、6人の境界は曖昧だったんだ。だけどひなぎくに起こった事とこれから起こる事は、そこに境界があることを否応なく突きつけるものだった。だから5人はあがいてる。たぶん、5人は共有したかった。だけど、もう、出来ない。はなこの言葉はそれをはっきりと自覚した言葉で、そしてその自覚こそが彼女の子供時代に緩やかな終わりを告げるものであったと思う。はなこが友人の兄に恋の告白するのも、恋愛という他者を認識して順位をつけ選び取る、という行為がこの自覚にも繋がっていると思えて、何だか切ない。大人になってしまいそうな心を抱え葛藤するはなこと、その葛藤すら与えられなかったひなぎくは、どっちも苦しい。疲れ果てたはなこ。冷めた様子で母の墓に塩を降りかけるひなぎく。私には、そのどちらも大人になるという現実に打ちのめされ「痛いよ」って泣いている子供に見えたんだ。
 唯一、ひなぎくが救われたように感じたのは彼女のお母さんのお墓が湖にあるって所だった。ひなぎくのお母さんは、狭い街から海に飛び込んで、今は湖の真ん中に眠っている。どこへでもつながっていそうな海へと飛び込んだのに、お墓が湖の真ん中なんて笑えない。でもそれが、ひなぎくの子供らしい望みによるものだったりするなら、いいなと思った。
 もしも何か、困ったことがあったら、連絡下さい。何もなくても、下さい。昔みたいに、一緒に泣いたり笑ったりは出来ないかもしれないけれど、それでも、下さい。絶対、絶対、連絡下さい。

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