第3期第4回:優秀作品


鈴木理恵子 映画評『崖の上のポニョ』

 もしかしたらこの映画は非合法的な薬物をきめてから観るとより楽しめるのではないだろうか。その種の薬物摂取の経験はないので確証はないけれど、圧倒的なヴィジュアルイメージの洪水に、ポニョ自体がやばいクスリをきめこんで大暴れしているモンスターに見えなくもない。うねる波を魚に見立てた海の描写は魔術的な美しさで魅了されたが、物語は破綻していた。本作を楽しむためには、常識とのすり合わせを放棄した上で、現実と不整合な世界観を楽しめる余裕が必要かもしれない。
 物語は、海辺の小さな町を舞台に、さかなの子ポニョが人間の宗介に恋をして一緒に生きたいと願うことから始まる。アンデルセンの人魚姫を下敷きにした幼い子どもたちの愛と冒険の物語である。
 まず宮崎駿監督の頭の中に湧き立つイマジネーションがあって、ストーリーはそれを映画というかたちで提供するための手続きでしかない。本作で感動するとしたら、それはストーリーを超えた映像のダイナミズムを感じたときであり、物語を通して語られるメッセージや登場人物の心情などではないだろう。ポニョのような破天荒にエネルギッシュなキャラクターを、老境となった宮崎駿が作り上げたことは興味深い。ほとばしる生命力はあこがれにも似た希求なのだろう。
 本作の好悪の基準は、観客がリサをどう受け止めるかにかかっているのではないか。リサの造形は、これまでの宮崎アニメのヒロイン像を踏襲したものである。気が強く、我も強く、あふれる正義感から常に正論を吐き、マイペースで、協調性のないヒロインたち。宮崎駿の理想のミューズたちである。宮崎監督はこうした少女たちにふりまわされたいと思っているのだろう。リサが受け入れ難いとしたら、母親という責任を担っており、処女性がないことも大きいとは思うのだが、その行動に動機づけを与えなかったからで、他のヒロインたちと同じように大義名分を与えていれば、常軌を逸した行動も、自らを犠牲にしてまで危険に立ち向かった勇気と正義のヒロインに反転されたはずなのだ。
 つまり、リサの無謀な運転や制止を振り切ってまでも通行禁止ゾーンを車で突っ走るのは、ポニョが波間を疾走し車と並走する画を宮崎監督が描きたかったからであり、嵐の夜に子どもを置き去りにしてまでデイケアセンターに向かうのは、宗介とポニョの2人だけの冒険を描きたいからなのだ、と観客に思わせてしまう。それはやはりまずいのではないだろうか。魅力的なシーンだけではなく、それをつないでいくディテールを丹念に描き込むことによって、映画という全体は説得力を持ち得るだろう。本作はそうしたディテールの積み重ねの多くを省いているので、わかりづらく登場人物たちに共感しづらい映画になってしまったのだと思う。この映画に必要なのは物語の説明ではなく、細部なのだ。
 しかし、結末に向かうにつれ畳み掛けるように折り重なっていく理解不能な演出は尋常ならざるものがあり、異様な迫力があった。まずもって物語はポニョが宗介に恋をして人間になりたいと願う個人的な理由から始まったはずなのに、世界の破滅というとんでもなくスケールの大きな話に転化され、最後に宗介は他人の人生を背負うか否かの重大な選択を迫られることになるのだ。5歳児に! ここまで不整合で混乱しながらも結末まで引っ張っていく力がある映画は、宮崎駿にしか作れないだろう。天才の狂気とはこういうことなのかと、感動すら覚えた。俺がルールブックだ! というわけだ。
 さて、宮崎監督が本当に望んでいる結末はこの先にある。5歳児の宗介がポニョの後見人になることなど無理なので、リサ夫婦がポニョを引き取り育てるかたちになると思われる。リサとポニョ母が相談しているシーンがあったが、あれはうちの娘をよろしく的な会話がなされていたに違いない。つまり宗介は、血のつながらない少女と妹という関係で一つ屋根の下に住むことになるわけで、この関係こそが宮崎駿の欲する愛のかたちなのではないだろうか。

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