第2期第6回:優秀作品


鈴木理恵子『乱暴と待機』(監督:冨永昌敬 原作:本谷有希子)

 監督は、『パビリオン山椒魚』『パンドラの函』の冨永昌敬。原作は、演劇と文学の双方で注目を集め活躍を続ける本谷有希子。2005年に本谷作・演出で上演され話題を呼んだ作品を小説化したものである。冨永監督はウェブマガジン『Real Tokyo』のインタビューで、「原作者になりきるつもりで」「とにかく原作通りに」「原作に忠実に映画化したとだけ言いたい」と語っている。一方、本谷は『ユリイカ』10月号のインタビューで、「わたしの映画じゃない!!」と怒りをあらわにしていた。この差異は面白い。しかもこの映画は、本谷有希子が冨永昌敬を監督に指名しているのである。
 番上(山田孝之)と、あずさ(小池栄子)夫婦が引っ越した先には、奇妙な共同生活を続ける山根(浅野忠信)と奈々瀬(美波)がいた。兄でもないのに山根を「お兄ちゃん」と呼び、人に嫌われまいとおどおどする女、奈々瀬。あずさと奈々瀬は同級生で過去に因縁があるようだ。屋根裏から奈々瀬をのぞく行為を繰り返す山根と、無職で下半身がルーズな男、番上。男女4人による哀しくも可笑しい愛憎劇が繰り広げられていく…。  原作では山根と奈々瀬が中心の話だが、脚本は、ほぼ均等に4人が交錯する物語に書き換えられている。通常であれば観客はこの中の誰かに視点を重ねたりもするのだが、冨永監督は見事なまでにそれぞれを共感できないキャラクターに仕立て上げている。怒りで顔が(さらに)ぱんぱんになった小池栄子と、顔色を伺いながらスウェット姿でくねくねする美波の対比が至妙である。山田孝之のクズっぷりもいい。意見が分かれるとすれば、それはおそらく浅野忠信が演じる山根の造形だろう。これを作り過ぎととるのか? 演出力と評価するのか? 前出の本谷有希子のインタビューでは、納得がいかないところだったようだ。山根はぎりぎりのキャラクターであり、見るからに変な男ではないのだと言う。  だが、あのキャラクターは、のぞきという行為を淫靡で変質的なものから逸らし、不器用な男の屈折した愛のかたちではないかと思わせる役割がある。山根はいつもカセットテープの編集をしていて、他のことには興味がないかのように振舞っている。そうでもしなければ彼は人とどう接したらいいのかわからないのだろう。のぞき、のぞかせる関係とは、山根と奈々瀬にとってセックスの代替行為のようなものではなかったろうか。無人の夜の商店街を足をひきずりながら全力で走る浅野忠信のロングショットが素晴らしい。何の説明も台詞もないこのシーンから、山根という男の孤独が伝わってくる。
 おそらくは郊外の閉塞的な状況の中で展開される物語なのだが、息苦しさやどんづまりな感じはなく、開放的ですらある。あずさが行う嫌がらせや、山根が続けるのぞきについても陰湿なところがなく、自分勝手な子どものいたずらに近い感覚である。そう、ここで描かれているのは、男の子と女の子の世界なのだ。男の子でしかない山根は、奈々瀬のいかにも女の子らしい“面倒くさい”を引き受けることができなかったのだ。  この先も奈々瀬は食べてはもらえない林檎をむき続けるのだろう。奈々瀬にとって林檎はむいて差し出すだけのものであり、食べてもらうことは重要ではない。それは女の子の世界の中で完結した行為である。ラストで見せた小池栄子の凛々しさは、男の子と女の子の世界とは決別し、成熟に向かおうとする女の潔さであろう。
 音楽を担当するのは大谷能生。菊地成孔のイメージが強い冨永作品だが、前出のインタビューで冨永監督は、「菊地さんの音楽は本谷さんの書く物語には合わない」と思ったと語っている。その理由は原作に、「エレガントな要素が皆無」だから。この発言も面白い。そしてそれは正鵠を射ている。PVを手がけたこともある相対性理論だが、「オトコノコ、オトコノコ」と心なく繰り返されるやくしまるえつこの歌声は、この上もなく合っているだろう。

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