第3期第4回:優秀作品


ハセガワアユム 映画評『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

 「今夜、街はきみのもの」と華やかなオープニングテーマで幕を開ける。真っ暗な深夜、街中の壁にグラフティと呼ばれるペイントを施したり、自作のステッカーやパネルを電柱やポスト、橋など至る所に貼ってゆく。そんなストリート・アーティストたちの姿が次々と映り、警備員が現れては消えてゆく。
 このドキュメンタリー映画の監督・バンクシーはロンドンを中心に活躍し、反権力や反資本主義の政治色の強い絵に独特のユーモアを添えて、最大級の成功を収めている。その芸術≒犯罪行為のためか素性を一切明かさない徹底した覆面アーティストでもあり、映画のなかでも黒いシルエットやモザイクで隠されている。
 しかし本作の主役は彼ではなく、一般人である。昼はロサンゼルスで古着屋を営み、夜はグラフティの現場を撮影し続けることにハマってしまい、何千本ものテープを溜め込んでしまった"自称"映像作家のティエリー・グエッタだ。ビルの屋上であろうがディズニーランドであろうが、あらゆる危険が隣り合わせの現場でも臆する事なく同行するほどの熱狂ぶりでカメラを回し続ける。アーティストたちも自分の作品は消されてしまう儚さを知っているため、彼の存在を認めて行くようになり、ついに接触不可能だと言われた伝説の覆面アーティストと邂逅を果たす。
 ここまでは、グラフティの臨場感のあるスリルや、ゲリラで活動するアーティスト達の素顔に触れるドキュメントとして充分楽しいのだが、感化されたティエリーもグラフティをやるようになり、バンクシーが「アーティストになったらどうだ?」と冗談で提案したところ、それを本気に受け取り邁進していくあたりから、映画自体が暴走し始める。 
 日常に作品を混入し「見せる」ストリート・アートは、総じてメッセージ性が高いものが多い。何千万円と価値があるほど有名だったが清掃局に消されてしまったバンクシーの作品で、『レザボアドックス』のロバート・デ・ニーロが構える銃をバナナに置き換えたグラフティがある。これが銃を揶揄しているメッセージは明らかだし、バナナという組み合わせもアンディ・ウォーホールを彷彿させてユニークだ。一方、ティリーは同じような手法を用いてエルヴィス・プレスリーが抱えるギターを銃を置き換えている。そこから何かを探ろうとしても方法論だけが宙に浮いていて、読み取れるメッセージは何もない。無邪気なだけだ。だから映画館の客席からも失笑が漏れる。
 ティエリーの「好きだから自分も出来る」と思った、その気持ちはどこまでもピュアだが、作品の手法はこのドキュメントに出て来たアーティストたちの安易なパクリで構成されている。その厚顔無恥な暴走は留まる事を知らず、下積みや個展もせずにバンクシーたちの推薦文を宣伝に利用して、私財を全部つぎ込みハリウッドで美術展を開く。そもそもまだ何も成し得ていないのに、美術展の名前が既に「ライフ・イズ・ビューティフル」というセンスが全てだろう。
 そのような作品たちが、美術品愛好家たちに受け入れられるのか? あなた自身はどう感じるのか? 劇場で確かめて欲しいところだ。私は、そんなバカな、という驚きからどこかマゾヒズムに似た快楽に変わっていった。そう、日本の芸術や文化も大衆的価値観だってどれが正しいかなんて判らない。本当の価値観とは何なんだろう? と暗くなってしまうが、ティエリーの笑顔と無邪気さだけはどこか憎めないまま残る。逞しいもみあげとヒゲがトレードマークで、まるっこい身体をよちよちさせながら、センスを疑わず一生懸命グラフティを描き、ペンキをこぼしてしまう場面で起きた笑いは、失笑ではなく彼を見守る優しい笑いでもあった。いわゆるドキュメンタリー映画が、その対象である人物やアートの補足として機能するなら、この映画は率直すぎるほど残酷だし正しい。こんがらがった頭のなかであの憎めなさだけが救いだったし、バンクシーも同じように憎めないと思っていたはずで、こんな不思議な映画が産まれてしまった。ティエリーは公開羞恥プレイのような本作を見ても、きっと気にしないだろう。そういう男だ。

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