第2期第3回:優秀作品


田中孝枝 枡野浩一『ショートソング』

 もし君に 何か貸してと いわれたら 次に貸そうと 思う本
 安藤美姫が、日本中のマスコミから大きな期待をかけられながら、15位に沈んだトリノオリンピックを見ながら、私は友人にこう言った。
「この人は、ここから立ち直る事が出来たら本物になるよね。」
なんと偉そうな自分。ごめんなさい。一度言ってみたかったのです。
 とはいえ、全くあてずっぽうに言ったわけでもない。フィギュアスケートの選手にとって、体の変わる十代後半は「難しい時期」と言われているし、その時期には降りていたジャンプも降りられなくなるもので、その後「立ち直る」としたら、ジャンプを取り戻すか、ジャンプなしでも勝てる選手になるか、そのどちらかしかないわけだから、それが出来るようになるという事はどちらにせよ今以上の選手になる、ということなのだ。
 その後安藤美姫と言えば、世界選手権で優勝、したかと思えば翌年は棄権。次の年に表彰台へ返り咲くも、バンクーバーでは惜しくもメダルに届かず、しかし直後の世界選手権では感動的な演技を披露、と相変わらず成績的には浮き沈みをを繰り返しており、それでも尚、氷の上にあり続けている。
 ところで、スポーツならば体の変わる時期だが文化活動に勤しむ人はどうだろう。いわゆる絵を描くとか、文章を書くとか、短歌を詠むとか、そういう人たち。彼らが、「本物かどうか」を問われるのはいつだろう。そこに居続ける事を自身で選択する日は。
 ショートソングは、そこに留まろうとする人と始めようとする人の物語だ。
 短歌の世界において、20歳で賞を取り、天才歌人と呼ばれる伊賀と、ハーフの美男子、だけど童貞。憧れの先輩(女)に誘われて短歌を始めたばかりの国友。彼らが詠む歌は互いに互いを捉え、刺激する。天才と初心者。先輩と後輩。2人の描かれ方は対照的で、それでいて、互いは互いにとっての過去であり未来であるようにも見える。特に伊賀は、自身が終ぞ選ばなかった道を選んでしまいそうな過去の自分、を国友に見ているようにすら思う。
 やりまくりの伊賀と童貞の国友。整った顔立ちをダサさで無駄にする国友と、元肥満児(推定)で何でもない顔をセンスでカバーする伊賀。
 「童貞」とは「未体験」の象徴である。「未体験者」にとって、世界は新鮮で驚きに満ちている。そしてそれが、伊賀には「未来がある」事のように見える。伊賀が、国友の「童貞性」を羨ましがるような記述があるが、それは彼が国友の童貞性を「自分には手に入れらないもの」と理解しているからだ。それは既に経験済みだからではない。自身の自己評価でさえ、誰かの目を意識してしまう彼の自意識によって、だ。語りの中で「繊細な」と繰り返す彼はそう口にすればどんな反応が得られるかを知っているし、知っているから驚きがない。だから彼は、「未体験」を体験しづらい状況にいる。 きっと、十代の頃は良かった。感受性の貯金だけでなんとかやってこられた。過剰な自意識は自らへの客観視の裏返しであり、人より少しだけそれに長けていれば世界が自分の想像している範囲から大きく変わる事はなく、周囲も自分も容易に理解できたのではないか。
 だから伊賀は戸惑っている。20歳の自身を超えられない感じ。才能が、貯金のように目減りしていく焦り。伊賀にとって国友は才能という貯えが充分な、そしてその貯えがある事にすら気がついていないような、そんな存在に見えるのだろう。
 終盤、伊賀に怒涛の「未体験」が襲った。分かったようなつもりになっていたから分からなかった周囲が、処理できない問題として伊賀の前に現れた。そしてその先にあったものは広がった世界に対する「大丈夫」という肯定だった。
 本文中、童貞で女性との距離感を測れない、国友の作る恋の歌は旨すぎるような気もしたけれど、触発されて詠んでみたらわかった。違う。残酷だけど、センスってそういうものだ。<

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