第2期第3回:優秀作品


落雅季子 toi『華麗なる招待』

読者諸賢、ごきげんよう。私は『けいおん!』を愛して止まない、名も無き演劇サークル部員である。演劇サークル所属であるからもちろん演劇を愛好している。私とて四六時中軽音部の女子高生に心奪われているわけではないので、たまには真剣に観劇もする。先日観たソーントン・ワイルダーの『ロングクリスマスディナー』は、気鋭の若手演出家、柴幸男氏が訳・演出を手がけており、興味深い作品であった。
 しかし私は観劇の最中『ロングクリスマスディナー』と『けいおん!』との奇跡のような符合を発見するに至り、衝撃に打ち震えた。本稿において、両作品の驚くべき親和性を存分に語りたいと思う。
 『ロングクリスマスディナー』は、ベヤード家の90年間をクリスマスの晩餐シーンの繰り返しで描く。かたや『けいおん!』は、とある女子校の軽音部員たちの3年間を放課後のお茶会シーンの繰り返しで描く。登場人物たちにとって最も幸せな時間を抽出して積み重ねる構造を、双方兼ね備えている。母とその息子夫婦の三人で始められたベヤード家の時間は、ひとりの男の子の誕生によって立体的に動きだす。これは、後輩のあずにゃんが入部したことによって、桜高軽音部が学年を超えた"部活"としての体裁を整えたのと同様である。その後もベヤード家には誕生と死がぐるぐるともたらされ、家は生まれる人と死にゆく人の容れ物としての機能を果たす。
 そこで読者諸賢には思い起こしてほしい。学校という容れ物に集う、代替可能な"生徒"という中身のことを。
 人は誰も、繰り返す日常の中で生きている。それでいて、いつまでも繰り返しの中に留まることはできない。『けいおん!』におけるその構造は、アニメ第二期に突入して、より明示的なものとなった。第二期は、視聴者があずにゃんに自らを代入し、卒業してゆく唯たちを見送るという、見事なまでの感情移入構造を形成している。唯たちが軽音部から卒業する事実を描くことで、物語の外側に存在する時間を示唆しているのだ。自分の記憶はかつての誰かの記憶かもしれない。やがて来る誰かが今の自分と同じような経験をするかもしれない。このような俯瞰する視点は、たとえば軽音部OGである顧問のさわちゃんの存在により顕在化しており、それによって作品世界は普遍的な広がりを獲得していると言えるのである。
 実際のところ、世界とは代替可能な個人の集合体である。実は腕力の強いむぎちゃん、数日の練習で姉よりギターのうまくなる憂など「その設定いらなくねえ?!」と思わず突っ込みたくなってしまう個性の数々が存在することは、本質的に代替可能な存在である彼らについて、キャラクタとしての個を尊重し、クローズアップする役割があるからに他ならない。だからこそ私たちは、何らかの感情を投影する対象としてではなく、作品から私たち自身に返却されるものを見つめることができる。
 飽きるほど繰り返される日常は、意義深いと同時に瑣末なものである。今日は昨日みたいで明日は今日みたいで、毎日楽しかったら大正解。その通りである。正確には、その通りであったらよい。だが学校はいつか卒業しなければならず、公演はいつか終わり、誰もがいつかは死ぬ。センチメンタルとは、この状態が続かないことがわかっていて、それでも今が一番楽しいと思えるような切なさの中にある。
 間もなく訪れる唯たちの卒業、すなわちアニメ最終回の暁には、私は彼女たちのきらめく青春の日々を思い起こし、涙に暮れるであろう。その時に私の瞼の裏を彩る走馬燈の如き光景は『ロングクリスマスディナー』ラストの歴史早送りシーンに似て、一度押し流された感傷が、後から津波のように押し寄せるドラマティックなものであるに違いない。ベヤード家の人々の人生が、一つの長いクリスマスディナーに象徴されていたように、唯たちの過ごした数えきれないティータイムは、普遍的な一つのティータイムに回収されてゆく。そのような時間を私は今、高らかに命名したい。『ロングアフタースクールティータイム』と。

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