第3期第6回:優秀作品


鈴木理恵子「課題A マームとジプシー『塩ふる世界。』劇評」

 舞台には横長の台が1つ。セットらしいものはそれだけで、作・演出の藤田貴大はSTスポットの限られた空間を、少女たちが暮らす海辺の町へと自在に変換させてみせる。背景を持たなければ、視覚が固定されることもない。精緻に設えた装置も、喚起される想像力を超えることはできないだろう。『塩ふる世界。』は、『帰りの合図、』『待ってた食卓、』に続く三部作の最後の作品。6人の少女と1人の少年の真夏の物語。複数の視点で語られる記憶の物語である。
 ひなぎくという少女の母親が自殺し住んでいた町を離れることになる。学校は複式学級で成り立っており、町にある美容院も1つしかない。見捨てられたような海辺の小さな町を舞台に、シーンを反復させ角度を変え話者を変えて描いていく。1つのシーンは新たなシーンを呼び、1つの空間はまた新たな空間を呼ぶ。やがてはなこが何年か後に男と寝た話をしたとき、私はこの作品が記憶の物語であることにようやく気づいたのだった。重層的な時間の中で劇は進行し、記憶が変容するように反復の中でシーンは変化し、リフレインは変奏される。執拗なリフレインは奥底に潜む感情を引き出すだろう。カットバック(切り返し)、モンタージュ(編集)といった映画的手法を演出に取り入れているようだ。と、さらっと書いたがこれはすごいことである。なぜなら、そこにはカメラも編集機材もないからだ。
 記憶は常に「私」の視点を介して存在しており、他者と完全に記憶を一致させることはできない。1つの事実に対して、認識が異なり、複数の真実があらわれるように、世界は無数に存在する記憶(認識)によって引き裂かれている。記憶は「私」を追い詰め苦しめることもあるが、1つの記憶に慰められ支えられることもある。はなこが私たちは安心の子供であると語るとき、その顔は今にも泣きだしそうだ。安心の子供は、永遠に子供ではない。登場人物が口々にこの言葉を唱えても、庇護してくれる大人を失ってしまったひなぎくだけは口にすることができない。いや、そもそもこの世界に安心はあるのだろうか? あの日から安心という概念は消失してしまった。私たちは生と死が交錯する地平を危ういバランスで生きている。震える声で安心の子供だと語られるとき、これ以上に批評性を持った言葉を私は知らない。
 ストーリー自体は感傷的で普遍性を持った話であり、ありふれた話でもあるのだが、複数の視点と時間が溶け合う構成は高度に技巧的で洗練されている。俳優はみな素晴らしくはまっていて、なかでもひなぎくを演じた青柳いずみのクールビューティーは際立っており、少女の持つ無垢と酷薄を体現しているかのようだ。その対極にあるのが吉田聡子演じるはなこであり、例えば彼女は自分が毛深いことを気にしていて、3本セットのムダ毛シェーバーを購入したことを同級生たちにからかわれたりする。本作のエモーショナルな躍動感は新肉体派(と呼びたい)吉田の演技によるものが大きいだろう。俳優たちは、まさに体当たりの演技で身体ごと飛び込んでいくような熱さと勢いがあり、息を切らして走り踊るその背中が汗でぐっしょりと濡れていくさまは、洗練とは真逆の泥臭い生命力にあふれていた。こうした相反する要素が何の違和感もなく雑多に共存し相互に高め合っているのが本作の特徴であろう。不思議なのは、完成度の高い作品なのに未完の感触が残されていることだ。作品を生むときの混沌としたエネルギーが昇華されずに留まり続けているようで、この先もまだ変化を遂げていくような桁外れの速力があった。
 全力で走り転がる俳優たちの心臓が波打っている。波打つ身体はひなぎくが遊ぶ波打ち際へと変わり、流れる汗は結晶する。やがて、きらめく塩の粒がふり注がれる。藤田は、カメラの代わりに俳優の身体を使って演劇をモンタージュしてみせたのだ。思い起こすたびに記憶が変容していくように、作品もまた演じられるたびに生まれなおすだろう。

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