第2期第1回:優秀作品


原麻理子 快快『SHIBAHAMA』

SHIBAHAMAは、不真面目でかっこいいひとたちの話だった。
 ロビーにいても、開演前から場内にノリのいい音楽がかかっているのが聞こえる。客席へと続くのれんをくぐると、パフォーマーたちがすでに思い思いに踊っており、時折観客を踊りに誘ったり、「あ、どうぞぉーここ空いてます」と席に誘導したりする。舞台は取り払われ、観客が中央の空間を取り囲む形。四方の壁にははずむ「SHIBAHAMA」のカラフルな文字が映し出され、DJブースやらテレビやらがごちゃごちゃと床に置かれてやたらとあたりをコードが這い回っており、……ここは劇場だろうか。熊ちゃん(「SHIBAHAMA」のモチーフとなった落語「芝浜」の主人公、不真面目)と違い、まじめ人間の私は、劇場をこんなふうにして、まったくこのひとたちは……という気持ちに半分なる。残りの半分は、少し、わくわくしている。
 はたしてこのひとたちは、携帯電話の電源を切れと言うだろうかと思いながら、一応切った。このままいつ始まるかわからない感じでどんどん時間が過ぎていくのかも、と思っていたら、案外しっかり暗くなって、音楽も踊りも止んで、パフォーマンスが、始まった。
 開演前からそうであったように、開演後も、終始、観客がふらふらと舞台上(?)に立ち入っていけてしまいそうな空気はなくならない。それに彼らに役名はない。ただずっと、「こーじ」だし「りのちゃん」だし「ちだくん」。本番が始まったからといって、別の誰かになったりはしない。
 演劇の嘘を自覚すること、暗黙の了解を観客に強要しないこと、確かにそれは今まさに考えるべきことであり、見せてほしいものでもある。これも演劇でいいんじゃない? 演劇ってこれもできるんじゃない? と言ってもらえる公演に出会ったとき、全身から力が湧き出てくるような感動がある。でも、これは何か違う。快快には、まじめな人たちのつまらない常識や偏見をものともしないめちゃくちゃな力のようなものを感じるけれど、これは、私はなんとなく頷けない。そしてそれを笑って楽しめる人だけが、「わかっている人」みたいな空気がある。いや、いいけど。クオリティの低さを隠そうとせず、むしろ前面に押し出すやり方は、現代美術家の泉太郎を思い出す。これを演劇と呼んでいいのか。いや、呼び方はなんでもいいけれど。
 それは、私がまじめな人たちのつまらない常識や偏見をものともしないひと、に憧れる、ただのまじめな人だからかもしれない。残り半分のわくわくは、憧れなのだ。不真面目でかっこいいひとに、なりたくてもなれない人は、まじめなやり方で、前に進もうと頑張るしかない。

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