第2期第3回:優秀作品


ハセガワアユム 今日マチ子『センネン画報』

近年、文字が増えた。辺りを見渡しても文字が溢れていてうるさくてしょうがない。職場で嫌ってほどパソコンの前で作業した後に電車に乗ると、吊り広告だけでなく乗車口の上部モニターから無音のCMやニュースが流れて文字も動いて踊る。車内を見渡しても8割の人間が携帯電話を開いては、ネットやツイッターやミクシーや2ちゃんねるや出会い系やメールをしている。ご多分漏れず自分もそうで、メールの返信を書いてると乗り換えを間違えそうになる。帰宅してテレビを点ければ、全視聴者の耳が不自由なのかと錯覚するほど、喋り言葉を文字化したテロップが消えない。楽しみに買って来たCDもiTunesに読み込んだけど、再生して聴く気が起きない。聴こえて来るのは結局歌詞であり、どこもかしこも文字に囲まれてる。
 ある識者は「読書率は減ったが活字離れは起きておらず、現代人と活字は親密な状態」と言うが、ただの文字はただの情報に過ぎず、その文字に遭遇率が増えた所で、何が磨かれ何が伝わるのか。文字から世界を認識することに、ときどき心の底から息苦しくなる。好きな音楽も小説も漫画も、文字や言葉があるのが煩わしい時があって、そんな時には決まって写真集を選ぶのだけれど、漫画の中にも例外的なものがある。
 それは今日マチ子・著『センネン画報』というイラスト集で、文字が溢れているネットの海のなかで発掘されて賞をいくつか受賞し脚光を浴びた。一日にイラストを一枚ずつブログに掲載して1000回を目指すという企画から厳選された作品たちだ。初期はモノクロで短編漫画の体裁だったが、徐々に台詞の文字数は減って行き、言葉は漂泊されていくかのように消え、逆に絵には淡い色が彩り、ページいっぱいに染まった。なかでも印象的な"ブルー"に染まる海や空は、文字の世界で彷徨い疲れた漂流者のような私にはオアシスに見えた。
 ここの世界では、学生服を来た少年少女たちしか基本的に登場しない。「セカイ系」と類似されてもおかしくない閉じた世界ではある。ただ、所謂「セカイ系」がロボットだSFだ難病だと即物的な自己承認で騒がしいのに、こちらはのセカイは自己ではなく他人を思い遣る気持ちがつつましく点在し、一枚の絵の中にシュールな捻りや叙情など様々な表情がある。少年と少女は恋をしていて、その二人の間にある空気のような「気持ち」が、文字通り空気のまま染み込んでいる。
 代表作である『きみ』という作品は、海辺で少年が少女の写真を撮ろうとするだけの1ページだ。一コマ目にタイトル、二コマ目から四コマ目まで、カメラのシャッターに手をかける少年の動きがあり、最後の大きなコマでは少年がこちら側にレンズを向けて終わっている。普通、この四コマ目までの流れに沿えば、被写体である少女「きみ」が最後のコマを飾っているだろう。しかしこの少年と少女の視点がそっと切り替えられたことによって、少年にとっての「きみ」は少女であるが、また少女にとっての少年もまた「きみ」なのだという、視点交換が可能なほどの「気持ち」の等価値を見つけてしまう。この世界に文字は無いから、言葉が無い故にイマジネーションが混じりけのないまま浮遊している。だから解釈は幅広く自由だし、明快な正解を強要されることがないのも気持ちがいい。本当に静かだ。
 余談だが、そのような例外的な漫画がもう一冊ある。同じく「インターネット発、一日一枚のイラストを掲載」で爆発的に売れた、ほし よりこ・著『きょうの猫村さん』である。こちらも文字は限りなく少なく、猫の家政婦が奮闘する愛らしくもシュールな姿は、私にとって本書と同じオアシスの系譜にある。現実以上に文字が沸騰し混濁しているネット世界において、この二冊が浮上して来た無意識の理由が私には痛いほど判るんだ。と、パソコンの電源を切りベッドの中へこの本たちを抱きしめて滑り込む。

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