第3期第6回:優秀作品


落雅季子「課題A マームとジプシー『塩ふる世界。』劇評」

 昨年に引き続き、急な坂スタジオの坂あがりスカラシップに選出されているマームとジプシーの最新作は、彼らにとってなじみ深い横浜STスポットでの上演となった。
 本作の主人公、ひなぎくは、海沿いの街に住む高校生。彼女の母は一週間前、崖から投身自殺した。物語は、彼女と彼女の七人の同級生が、ひなぎくの母が死んだ日の回想をリフレインしながら進行する。
 『塩ふる世界。』とは、演出の藤田貴大の出身地である北海道伊達市の、雪景色と海沿いの街並みが投影されたイメージだろうか。STスポットのサイズと白い壁は、観る者の映像的想像力を邪魔することがない。ボートを漕ぐ少女たちのあどけない仕種。青い海に日が光り、少女が白い塩をふる。そんな姿がくっきり浮かんで見える。
 俳優の身体は、鳴り響く音楽にあわせて躍動し続ける。音楽は大きくなったり小さくなったりして逆説的に観客の集中力を研ぎ澄まし、隙間から聞こえる台詞にインパクトを持たせる。「お母さんのお墓」という言葉の本能的な悲しさが増幅され、耳について離れない。
 少女と死の組み合わせは、流れる時間を止めるものとして共に不可侵であり、マームとジプシーの作品中で繰り返し描かれるモチーフだ。母の死の理由は語られず、この街を去るひなぎくは、一生それを分からないだろう。少女と母の間には、決定的な断絶がある。その壁は、藤田がたびたび扱うもう一つのモチーフによって象徴される。少女は突然大人になる。ある日身体に訪れる、初潮という体験によって。作品中、ひなぎくは既に高校生で、同級生たちとあけすけに生理周期の会話を交わすなど、女の自分を受け入れつつあるようだ。それはこうも読み解ける。生理の来た娘はいつか母になれる。断絶が同時に連環でもあるという、救いの構造が用意されているのだと。
 終盤、それまでのノスタルジックな情景は断たれて、ひなぎくの同級生はな子の独白となる。繰り返される、私たちは常に”安心な子ども”という主張。母の死に直面する同級生に何もしてあげられないこと、友人の悲しみは私の悲しみではないと気付いてしまったことへの後悔を滲ませながら、あらゆる事象は自身の外側にあるとはな子は語る。前述のようなウエットなモチーフを作品中で扱う限り、自分はそこから切り離された”安心な子ども”というドライな自覚を持たなければ、作家は自身の紡ぐイメージで窒息しかねない。その意味で、藤田は非常に冷静な”引き”の目線を追求しているように思われる。それまで、死の匂 いをまとった少女たちの幻想的な風景に浸っていた観客は、このシーンで急激に作品世界が自分の身体から遠ざかってゆくのを感じるだろう。俳優の身体に限界近い負荷を掛け、疲労してゆく時間を共に体験することで、俳優、観客各々の”自分”にとって作品がリンクするものとなったこの瞬間、藤田は絶望的な”遠さ”の感覚を観客の”間近”に提出する。
 この観客へのコミット方法は既に多くの演出家が試していることだが、それを”海辺の街のフィクション”にパッケージングし、ノスタルジーから観客を突き放す異化効果までを描ききっているところが、本作の素晴らしいところである。叙情的な心理描写も、個人的な情景から比喩を溢れさせることも、作家を名乗る人なら出来る人は出来る。そのことと、自身の感受性に呑まれず、俳優と観客が一体化した空間を起点に何かを語ることが出来るということは、全く別の話なのだ。
 作品は、ひなぎくが、寄せては返す波に足を浸しながら、母に思いを馳せるシーンで終わる。客席が明るくなり、観劇後の放り出されたような寂寞の中、手元のカラフルなチケットと、刺繍が施された布カバーのついたパンフレットに目を落とす。手の込んだこれらの品々は、制作陣が毎回夜を徹して作るのだそうだ。その温かい手触りは、自分を現実にやわらかく引き戻してくれるようでもあり、いつまでも手元に残る作品の余韻のようでもあると、思ってみたりする。

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