第2期第2回:優秀作品


原麻理子 長嶋有『パラレル』

泣いているシーンが美しい。
 登場人物たちが、みんな印象的な泣き方をする。あるいは、した。アイルトン・セナの死に嗚咽した解説者。それを見て、静かにもらい泣きしていた彼女。腫れぼったい目で『女帝』を読むサオリ。区役所の窓口でぽろぽろ泣いた妻。「でも、いいんだよ」と歩きながらひとりで泣いた「僕」。
 冒頭からしばらく、私は登場人物に共感はしづらかった。「僕」がなぜかついてまわっている友人の津田はお金持ちで社長ですぐ見積もりを出すしキャバクラに行くし、まあまあの女は「性欲用」とか言いきってしまうし、私は少々憤慨した。しかし読み進めるうちに、彼らは違う表情を見せだした。
 作中には二つの時間がある。ひとつは今現在の、前に進んでいく時間。もうひとつは、現在のあいだに時折挟まれる過去の時間。大きな物語が展開するというよりは、静かに二つの時間が折り重なっていく。過去と未来は地続きである。普通に毎日を過ごしていて、時々いろいろなことを思い出しているときのように、読者である私の中に「僕」の記憶が降り積もっていく。降り積もった記憶の分、だんだんひとりひとりを大切に感じはじめてしまう。
 記憶を共有しているかのように感じてしまう一因は、描写される風景やものや出来事のクローズアップのしかたがなんだかおかしいことにある。各章の書き出しの一行目などは特にすごい。ある部分だけが突然切り取られてしまっている。そしてそのことが、ひとつひとつの情景に異様な手触りを与えている。見てもいない風景が焼き付いてしまう。駅員が食パンにつけていたいちごジャム。屋上でたくさんの洗濯物がはためいているところ。「トレインスポッティング」のポスター。螺旋階段。対向車線の車。
 なにもなくて、いろんなことがある。
 涙がとまらないまま歩き続ける「僕」が駅に辿り着くと、「向こうに梅の紅色が鮮やかにみえた」。そのあとはこう続く。「見事な梅だった」。このシーンを書くために、すべてのページが存在しているのではないかと思った。

↑ページ上部へ