第2期第6回:優秀作品


諸星友亮『乱暴と待機』(監督:冨永昌敬 原作:本谷有希子)

 本谷有希子の戯曲、小説を原作とした冨永昌敬監督作品。無職の番上とその妻で妊娠をしているあずさが、あずさのかつての同級生で奇妙な同棲生活を送っている奈々瀬と英則の隣に引っ越してくるところからストーリーは始まる。そして番上が奈々瀬に挨拶に出向くが、何故か奈々瀬は上下グレーのスウェットを着て読経をしている。そして失禁する。この導入からして無茶苦茶だが、まず設定からして無茶なのだ。
原作では番上と英則は仕事先の同僚だが、映画版では番上は無職で、英則が働いていることを匂わせる描写はない。つまり英則と奈々瀬がそもそもどうやって生計を成り立たせているのかが謎なのだ。登場人物の行動もおかしい。あずさは奈々瀬に高校時代に酷いことをされたから恨んでいる。だからあずさは奈々瀬と英則を追い出そうとするが、あずさは奈々瀬と英則の住居のガラス戸に(廃車回収の車から強奪した)自転車を投げ込むのだ。小道具の選択1つとっても奇妙だ。例えば奈々瀬と英則の本棚。奈々瀬は読経と写経をしている描写があるが、とても本をたくさん読むような人種には思えない。それなのにその本棚には岩波文庫が納められているのだ。そういったいろいろなものがズレた世界の中に、妙にリアルで生臭い人間が出てくる。奈々瀬と番上が(劇中の描写では)二度目のセックスをするときに、奈々瀬はスウェットの下にブラジャーをつけていない。そしてその現場を妊娠している妻あずさに見つかったときの番上の挙動。
こう書くと、さも散漫な映画の様に思われるかもしれないが、そうではない。妙な整合性、一貫性があるのだ。だからこそ謎なのだ。監督である冨永昌敬は何がしたかったのだろうか。鑑賞後に読んだインタビューで冨永昌敬は、ジャズ喫茶で10年以上働いていたから、(自分の映画のセリフの間合いには)セロニアス・モンクとエリック・ドルフィーの身体的な音の配置の影響があるかもしれないと告白していた。ビル・エヴァンスとチャーリー・パーカーではなく、モンクとドルフィー。この選択に妙に納得してしまった。彼が影響を受けたのはセリフの間合いだけではないような気もする。モンクやドルフィーの音楽はオーセンティックなジャズからすれば、異様ですらある。しかし異様ではあっても、錯乱したフリージャズにはならず、その作品には整合性がある。これはこの映画にも当てはまることだと思う。とんでもなくムチャクチャなことが起きているのに、トータルとしてはとてもまとまりのいい映画の様に感じられる。また劇中でドルフィーが愛用したバスクラリネットに比較的音色の近いバリトンサックスが印象的に挿入されるあたりにも"ドルフィー愛"を感じる。ただしインタビューを読まなければ、冨永昌敬はドルフィー的だな、とは思わなかっただろう。で、結局この映画は面白いのかって?面白いと思う。でもどう面白いのかは……言葉に出来ない。

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