第2期第4回:優秀作品


田中孝枝 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(監督:庵野秀明)

 某動画サイトに「1分で分かるヱヴァンゲリオン」という動画がある。これは「エヴァのテレビシリーズから旧劇場版までを1分程度にまとめたらこうなった」というもので内容は以下の通り。 テロップ「2015年」
ヱヴァンゲリオン(通称エヴァ)について説明を受ける碇シンジ。父・ゲンドウからエヴァに乗るか、ここから去るかの選択を迫られる。
シンジ「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ…」
場面変わって病室。入院中のアスカの裸を見て自慰を行うシンジ。射精の直後、シンジ、意を決した表情で顔を上げる。「僕、乗ります!」
瞬間、世界は明るくなり主要登場人物が手を叩きながらシンジを祝福。
「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」
笑顔のシンジ。暗転する画面。テロップ「父にありがとう」「母にさようなら」「そしてすべての子供達に」「おめでとう」画面、文字を残して―了。  当然これは既に見た人が楽しむ為のパロディであり、本当にエヴァが「分かる」わけではない。しかしこれはこれで、旧作が持つ「不完全さ」を中々よく捉えた動画ではないか。
 「思春期の男子が抱えがちなモノ」を突っ込んで、「何かありそうな感じ」で引っ張り、最後はとりあえず全肯定させて終わる、という構図。そして親子関係に問題を抱えた少年が最後に自己肯定される話、と要約できるストーリー。それが旧エヴァだと言われたら、確かにその通りだという気もするし、実際旧エヴァには説明がほとんどないという分かりにくさと、登場人物全員が思春期、という息苦しさがあった。最後の祝福はとりあえず大団円なんてものではなく、もっと根源的な、とにかく少年を祝福しなければならない、という意思のような終わり方だった。祝福についての説明も当然なくその展開は不完全であろうと構わないという強引な印象さえ受けた。動画はその印象も含めて「分かる」ようになっているのである。
 そんな旧作の流れを受けながら新劇場版ヱヴァンゲリオンは、二作目の破で新展開を見せる。端的に言えば分かりやすくなった。旧作が思春期の主人公に思春期の作り手が寄り添って描かれているような物語だったのに比べ、今作は大人の作り手が主人公に寄り添って描いているような物語だ。特に顕著だったのはシンジの父であるゲンドウの描き方だろう。旧作ではシンジが父を恐れ、憎み、乞う視点はあっても、父から子への視点を感じる事はほとんどなかった。目的の為に手段を選ばず、女性を物のように扱い、ひたすら妻を求めるゲンドウは子供のような存在だった。しかし今作の彼はミサトの手を借りシンジと会い「息子に母の事を語る父の姿」を見せたり、綾波に誘われシンジとの食事に出向いたり。子供のような人物造形が大きく変わったとは思わないが、シンジに対し自身も子供のまま接する事はなくなり、父としての立場を受け入れているように思えた。
 更に父に反発しエヴァに乗らないと決めたシンジにゲンドウは「大人になれ」と声をかける。旧作でのここは使い物にならないパイロットを切り捨てる場面だった筈だ。しかし今作では「成長しろ」。これが叱咤激励でなくてなんなのか。
 ここまで展開は旧作のあの圧倒的な祝福に向かっている。孤独な世界から他者との結びつきを信じコミットする登場人物達。自らエヴァを覚醒させたシンジ。(旧作では初号機と同化した母の力で暴走)
 子供達が生きようとするならば大人はそれを全肯定する義務がある。その肯定こそが子供に対する祝福となるのだから。しかし、旧作ではそれを「肯定する大人」が描かれてはいなかった。今作ではミサトがアスカに世界は面白さを教えゲンドウが父として息子に接する。新劇場版は大人が登場したエヴァなのだ。
 『破』のラストシーンは絶望的だが決して希望のない話には見えなかった。大人達はこの絶望的な世界で尚、子供達に「生きよ」と伝えられるのか。答えはQへと続いている。

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