第3期第5回:優秀作品


山名隆 映画評 『A』(森達也監督)

 オウム真理教団の内部や、そこから見た社会やマスコミについて描かれたドキュメント映画。撮影期間は96年3月から翌年4月まで。山梨県上九一色村(当時)の教団施設からの立ち退きや、破防法適用をめぐる騒動、さらに教祖や幹部の公判が始まった時期で、地下鉄サリン事件(95年)以降のオウムバッシングが拡大していった時期とも重なる。当時は、週刊誌やテレビで連日のように教団が取り上げられていて、本作のメーンの被写体である荒木浩もよくテレビで見た。
 もともとテレビで放映するために企画されたが、テレビ局から「反オウムの姿勢がない」と契約を破棄され、自主映画として作品化された。森は撮影にあたって、まず「信者たちの現在を、既成の形容詞や演出を排除して、ドキュメンタリーとして捉えたい」という内容の手紙を何度か送り、教団と撮影交渉をしたという。
 食事の内容といった信者の生活や麻原や一連の事件をどう思っているのかといった信仰にまつわる描写と、高圧的なマスコミの取材など、オウム側から見た社会の描写を中心に構成される。教団が起こした事件については説明されず、テロップも最小限に抑えられ、モザイクは一切かかっていない。
 監督の森によると、見た人はまず「オウム信者があれほど普通だと思わなかった」という感想を述べるという。
 一方でこの映画に映される社会の側、警察の態度やマスコミの報道姿勢などは、普通とは言い難い部分が見受けられる。映画のハイライトともいえる白昼、路上での職務質問と不当逮捕のシーンは、どう見ても刑事が悪いと思った。
 しかし、森は『A』のそのような受け止められ方について「警察は悪い、メディアはひどい、という反応が気になっていた」と語っている。「オウム事件以降、『正と悪』の二元論が、自覚のないままに幅を利かせている」とも。
オウムの信者を普通の人だと私も感じた。だが、彼らの信仰については理解できなかった。森が荒木に「麻原被告にサリンをまけと命じられたらどうしたか」と質問するシーンがある。否定する荒木に、森がしつこく食い下がると「仮定で語るのは難しい」と答える。否定しきれない荒木の様子に危険なものを感じたのは私だけではないだろう。
森はオウムについて、書籍『「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔』で「何もわからないことがわかりました」と書いている。
 私はその言葉を詭弁ではないと思う。森は、教団がなぜ犯罪に走ったのか、信者は今も教団にとどまるのかを何度も執拗に信者に問う。質問を変え、相手を変え、場所を変え、何度も問う。しかし、映画を最後まで見てもそれは分からないままだ。「森さんも修行すればわかりますよ」という信者の言葉が印象に残る。
 オウム信者は悪ではない。どちらかというと普通の人だ。かといって人畜無害だという確信も持てない。信仰は捨てていないからだ。監視は必要だろうが、この映画で描かれるような排斥は行き過ぎだ……。そんなすっきりとできない立ち位置に見る者は置かれてしまう。そんな映画だ。

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