ニュースレビュー土佐有明ライティングワークショップとはこれまでの課題
土佐有明ライティングワークショップ
  
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課題 劇評 ままごと『わが星』
想定媒体 なし
文字数 1600字

 劇作家・演出家の柴幸男が主宰する「ままごと」。『わが星』はその記念すべき第1作であり、第54回岸田國士戯曲賞受賞作品である。東日本大震災の予後によりいわき公演は中止となったが、全国5都市での再演である。ソーントン・ワイルダーの戯曲『わが町』を下敷きに、地球が誕生し消滅するまでを、団地で暮らす女の子ちーちゃん(地球)の一生と重ね合わせ、家族とのたわいない日常や、隣に住む同い年の女の子月ちゃんとの友情とともに描き出す。ループやサンプリング、ラップなど音楽的手法を演出に取り入れ、時間と空間を軽々と飛び越えていく。
劇場の中央にはフラットな白い円があり、それを囲むように客席が作られている。円は宇宙であり、茶の間であり、公園でもある。俳優たちは、この円を中心にして演技し、ときには客席にも入り込む。そこにはないテレビを見て、冷蔵庫の音を聞き、二段ベッドで眠る。祖母の役を男優が男性のまま演じていることも、これは“ままごと”であり、見えないものを見る演劇なのだと知らせているようだ。
間断なく流れる時報のリズムがこの作品の機軸となっている。音楽を担当するのは、口口口(クチロロ)の三浦康嗣。アルバム『everyday is a symphony』より「00:00:00」の音源を本編に合わせ再構成したものだ。音楽が瞬時にもたらす感情の高まりを計算した上で、言葉が紡ぎ出される。俳優たちの演技は、正確なフォーメーションで音楽とリンクしていた。恐ろしくエモーショナルな音楽に拮抗して共鳴していた。もしもこれ以上音楽の存在が大きなものであったなら、パフォーマンスは音楽に奉仕するものになっていただろう。団地とタイムカプセルに象徴される物語は、懐かしくときに感傷的である。紋切り型であるからこそ共有可能な物語は、巧みに観客のノスタルジーを誘う。
角度を変え少しずつズレながら反復される会話。図らずも、このズレと反復こそが家族であり、おそらく家族とは、同じような会話を幾度となく繰り返すことが許されている唯一の集合体であろう。月ちゃんがタイムカプセルを携えて客席の最上段から現れたとき、観客はちーちゃんと月ちゃんを同一の視界におさめることはできない。地球と月が僅かずつ離れていくように、お互いの日常を抱えて少しずつ離れてしまった二人を、交互に眺めることしかできないだろう。観客はちーちゃんを見るときは月ちゃんの視点で、月ちゃんを見るときはちーちゃんの視点が与えられる。舞台というフレームの中で行われる演技を見るのではなく、全方位的な空間の中で作品を見ることになる。 美しくパッケージされた演劇。本作の評価が分かれるとすれば、それはおそらくここなのではないだろうか? 夢のように美しいこの世界には、中心が不在なのではないか?
正確な演技、計算された構成、精緻な演出がなされる一方で、劇を推進していくストーリーにはあちこちに余白がある。それを埋めるように、観客は自在なイメージを描きその先にある固有の物語を作り出す。「私」の物語を仮託してストーリーを動かしていく。不在の中心によってこの作品の感動は支えられているのではないか。緊密に制御する技巧性と観客に委ねてしまう大胆さ、柴幸男は異なる特性を操作し配置する能力、つまりスタンスの取り方がずば抜けて優れているのだと思う。
内面とか、葛藤とか、自意識とか、エロスとか、トラウマとか、どうしようもない暗さとか、批評性などが中心にあるべきだと考えるとしたら、この作品は受け入れ難いものなのかもしれない。光と音と言葉が不可分に結びつき、重なったりズレたりしながら、近づいて、転がって、響き合う。演劇という概念からも“ずらし”がおこなわれているのだ。


[執筆者プロフィール]

鈴木理恵子(すずき・りえこ) ライター
pcmelonxtc@yahoo.co.jp