text by 武藤大祐(美学/ダンス批評)
撮影:飯田研紀
(C)2002 IIDA kenki
9/10〜9/12
プログラムA
ソロ18番

9/10

▲細見玲子

▲伊藤郁女

▲ナガッチョ

▲金子真由美

▲手塚夏子

▲杏奈

▲丹野賢一

9/11

▲山田うん

▲JINYA

▲ヤスキチ

▲遠藤豊

▲朴井明子

▲西脇さとみ

▲山田せつ子

9/12

▲内野広海

▲カスヤマリコ
(矢内原美邦振付)

▲秦真紀子

▲大橋めぐみ

▲中村公美

▲岡田智代

▲伊藤千枝
野由起子とボクデスと手塚夏子がいっぺんにブレイクして今では伝説となったあの第9回(キュレーター/丹野賢一)を見逃すまで、「ラボ20」のことを知らなかったのは不覚としかいいようがない。以後そんな口惜しい思いをしないよう、できる限り足を運ぶようにしているのだが、案の定毎回新しい発見をしている。第10回は中村公美。第12回は岡田智代と杏奈とTHE PEA★TAILS。第13回は大倉摩矢子とほうほう堂。コンテンポラリーダンスの観客にとって、新種を発見することに勝る楽しみはない。むしろ歯痒いのは、中村公美のアレはダンスなのか?とか、杏奈の筋肉の凄さ、大倉摩矢子のタメの見事さなどといった話題を共有できる相手が少ないことで、これは困るが、逆にいえばそれだけ「ラボ20」はレアものを掘り出す貴重な場であるわけだ。今やダンスのフェスやコンペは少なくないし、無審査で出演できるフェスもあるが、これほど明確なフィロソフィーをもって埋もれた才能を主体的に発掘・育成している場所はないだろう。

コンテンポラリーダンスは既成の枠組みから自由な“何でもあり”のダンスです、伝統とか因習にとらわれない“いま現在”の表現です、というのは決まり文句だけれども、しかしだいたい舞踏とか現代舞踊も当時はそんなようなことを主張していたわけで、それを、習ったり・教えたり・人真似をしてきたからこのありさまである。だからコンテンポラリーダンスだって「コンテンポラリーダンス」と名づけられた時点ですでに相当危ないのだが、その点「ラボ20」はコンテンポラリーダンスの事実上の定義である“何でもあり”なノンジャンル性に対して最高度に自覚的である、というよりも、それに向けて最大限に寄与するような立ち回り方をしている。なにしろ、「ラボ20」の告知やフライヤーには“コンテンポラリーダンス”はおろか“ダンス”という言葉すらごく控え目にしか記されていない。つまりジャンルとしての定義付け(=基準化)などは正当にもほとんど放棄あるいは黙殺されているのである。

それゆえ「ラボ」すなわちラボラトリー、実験室なのだが、しかしこれを古典的な実験主義・前衛主義の“やり逃げ”精神と混同してはいけない。確かにコンテンポラリーダンスには規則も教科書もないが、しかしワン・アンド・オンリーな表現というものは表現としてのクオリティに対する価値尺度もオリジナルなものを携えているはずであり、その自前の価値観については自らあくまで厳しく忠実であらねばならない。「ラボ20」の売りは、毎回キュレーターを立ててオーディションをし、さらに公開ディスカッションなどを経て本番までに作品を練っていくという、キュレーターやスタッフや観客を巻き込んだ“共同作業”のシステムであり、これがアーティスト個人の(ときに曖昧な)イメージや衝動にクリアな形を与える結果につながっているようである。共同作業の過程で何がどれくらい変わっていくのかはケース・バイ・ケースなのだろうが、単なる募集やオーディションではなくあくまで拾った種を育てていくというシステムは非常に主体的なものに思える。責任の所在も明確である。

「ラボ20」12回分の集大成として企画された「ラボセレクション」、6プログラム27本を見終って頭に浮かんだのは大体こんなことだ。「セレクション」は、地道ながらも本質をついたクリティカルな長期計画の中間報告であり、5年間の蓄積を十分に感じさせる内容だったように思う。個人的にも過去の出演者を見ることができて収穫は少なくなかった。またもやワケわからないヒト・モノをいくつも目撃することができた。流石の手応えというべきではなかろうか。
ずはAプロ「ソロ18番」、過去の出演者18人+キュレーター3人=計21人の作品を見た。ヒット率が高かったとは決していえないけれども、それぞれにトンがった作品ばかりで、気を抜いて見ていられるものがない。なによりこの緊張感が大事だ。少し個人的な切り口になってしまうが、未知の存在を発見することこそ「ラボ20」の最大の醍醐味なので、今回自分が初めて見た7人の中からピックアップして触れておきたい。

金子真由美「背向」。アンニュイな白いシュミーズの女が床にへたり込み、「昨日さぁ、すんごく面白かったのお〜」などとだらしなく独り言を言いながら勝手に吹き出したり、突然黙り込んだり、フラフラと動き回ったりするという作品。一見ルーズな内容でありながら、やっていることにスキがなく、パフォーマンスとしての完成度においては油断すべからざるものがある。若手霊媒師がアル中のオバサンを降ろしてしまったかのようなアブナい雰囲気や、ダサいお芝居にならない絶妙なセリフの発し方など、総体的に計算高さと奥深さを感じた。この人の世界をもっと見たい、と思った。

ヤスキチの「祝…こっそり平行植物…」は“客いじり”を経由して“客放置”に至るという手ひどい戦略が光る逸品。モンチッチ状の髪型、グロスでテカテカになった唇、遊び半分のように脱力していながら奇妙な機敏さで跳ねたり踊ったりする。そして「久しぶりに踊ってみました」と喋り始め、わざわざ客の前に出ておきながらラボ5周年を適当にめでたがってくれる。圧倒的な無気力エネルギーを空間に充満させつつ、しまいには「じゃ、みなさん眼をつぶって、5年前のことを思い出してみてくださーい」などと言い放っておいて、自分はいい加減に動き回ったりしている。もちろん誰もなかなか眼を閉じたりはしないので、“つぶって、つぶって”と懸命にジェスチャー。しばらくすると「4年前〜」「3年前〜」と親切にアナウンスして、奥に引っ込んでしまったり、出てきてなぜか着替えたりしている。舞台の舞台性を消去することで“観客が眼をつぶっている”という既成事実を強引に仕立て上げる気だ。向こうがその気なら、こっちにはなす術がない。観客としての受け身な態度が逆手に取られて、痛快なまでに強制敗北。

内野広海「ゆらら ささらと」も忘れられない。エレクトリックベースを弾く、一見ただのミュージシャン。こういう人がこういう場所に出てくると、それだけでいわゆる“パフォーマンス”系統かなと予測してしまうが、やっぱり楽器を床に置いて、両腕を後ろにやって、かがんで歯で弦を引っ張り出す。古いなー、と思っていたら、不意に姿勢が起き始め、頭が後ろにそっくり返ってしまった。ジョン・ゾーン/ネイキッド・シティによるメシアン「世の終わりのための四重奏曲」最終楽章がバックに流れ、最後までのけぞり首なし状態で静かに佇み続ける。だから途中から楽器はもう関係ないはずなのだが、床に転がったベースと、のけぞる内野の体との間に不思議な関係が保たれるのが面白い。点々と置かれた人と物が、もうつながってはいないがゆえに、過去にはつながっていた事実を浮かび上がらせる絵画のような静けさ。いくら時間が流れても、これ以上はどうにも展開しようのないドラマができあがる。

Aプロ各日から一人ずつ取り上げてみたら、あまりにもマニアックな並びになってしまった。さすがに気が引けるのでもうちょっとフォローしておくと、丹野賢一「020-FRILL」(キュレーター枠で出演)や山田うん「7月7日 ver.9月11日」はいずれもよく仕上がったスタイルをしっかり打ち出した見事なパフォーマンスだったし、伊藤郁女「Redundant」は(作品作りはまだまだ甘いとはいえ)よい素材、すなわち身体的個性とそれを活かすインスピレーションの確かさを見せつけた。矢内原美邦「18」(出演/カスヤマリコ、イワブチテイタ)は事実上ニブロールの新作と呼ぶに相応しい内容のある作品を作ったし、中村公美「貴方探してこの街へ ―横浜アゲイン編」、岡田智代「PARADE」などはまさに「ラボ20」だからこそ出会える掘出し物といえるだろう(いやもちろんここから外へどんどん出て行ってほしいのだが)。さらに詳しくは筆者の個人サイトに書いてあるので、ぜひそちらを参照して頂きたい。

て「ラボ20」では第3回から「ラボ・アワード」が設けられている。これは毎回必ず選出しているものではないらしいが、今回の「セレクション」Bプロ「アワード単独公演」では、冒頭でもふれた第9回の受賞者、天野由起子と小浜正寛(ボクデス)がそれぞれ60分という長尺にトライし、さらにCプロ「アワード・ショーケース」では過去のアワード受賞者4人、神蔵香芳、岡本真理子、佐藤ペチカ、オガワ由香による作品が二日間にわたって上演され、「ラボ20」としての一応の評価軸が提示された。とりわけ(奥手な)天野由起子を初めての単独公演に引っ張り出した功績は大きく、こんな所にも「ラボ20」の“アーティストを育てる”姿勢が現れているといえるだろう。
9/15〜9/16 プログラムC アワード・ショーケース

▲(左から)神蔵香芳 岡本真理子 佐藤ペチカ オガワ由香
9/13&9/14 プログラムB アワード単独公演

9/13

▲天野由起子

9/14

▲小浜正寛(ボクデス)
天野由起子「蝶長のマツリ vol.1」は、全世界待望の新作にもかかわらずたった1ステージというこれまた違う意味でレアものになったが、蓋を開けてみれば、これまでのような堅牢な作品志向を離れたライヴ性重視の60分間。越智義久のパーカッションとコラボレートして、全編に渡りとにかくよく踊った。全体は6つのパートに分かれ、床に倒れたまま、あるいは壁にはりついて、緩急の踊りをほぼ交互に展開。三個のトイピアノを並べて絡むシーンだけはどうにもぎこちなくて頂けないが、全体に気を抜いた所が微塵もなく、見ている方にも快い緊張と疲労を強いる濃密な時間だった。いつもの天野作品で見られるような、着実に準備されたクライマックス部分で遂にほとばしり出る爆発的な踊りの凄まじさを知っている人にとっては、必ずしも意外な攻め方ではない。とかく作品構成の見事さばかりが語られがちな天野がダンサーとしても類稀な存在であることを自らアピールしたわけだが、路線変更するのはまだ早い、もっともっと歴史に残る傑作を作って見せてほしいというのが観客側の本音ではなかろうか。しかし他方で、一つのステージにこれだけのエネルギーを注ぎこめるアーティストが今の日本にいるだろうかと考えれば、やはりこの人の大物ぶりは際立っている。そういう意味では次への期待をつなげるに十分なパフォーマンスだったと思う。

すべての作品についてコメントするわけにもいかず、あえて思い切り偏った取り上げ方をすることで筆者が「ラボ20」に何を求めているかということを反映させてみた。いうまでもなくそれは新種の発見であり、しかも個人的な発見である。評価の定まっていないもの、未知なるものに、観客の一人一人が直接出会うところに面白さがある。いいかえれば、見るこちら側の眼や判断が試され、手持ちの価値観を壊されることへの期待。だから観客の眼も決して受け身ではなく、むしろ積極的に歴史を創るし、またどんどん創りかえられもするのである。「ラボセレクション」の1週間を通じて、そういうスリリングな場としての「ラボ20」の存在を再認識した。そろそろ次回のオーディションが終わり出演者も決まったようで、見るとまた聞いたこともない名前ばかり並んでいる。自分の眼で新種を発掘するのが今から楽しみでしょうがない。
武藤大祐さんのWebサイト
[dm on web]
 http://members.jcom.home.ne.jp/d-muto/

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