訳:原卓也訳:小田島雄志
トルストイ『シェイクスピア論および演劇論』の紹介


ここでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』などといった小説で超有名なロシアの作家、トルストイが、実は晩年に書いた論文『シェイクスピア論および演劇論』の中でシェイクスピアをけちょんけちょんにしているという、余り知られていない事実を、紹介したいと思います。

この論文は、

じめてシェイクスピアを読んだ時に覚えたおどろきはいまだに忘れてはいない。

と始まるのですが、そこで、以下にはトルストイがシェイクスピアに捧げる心酔の美辞が流麗に続くのだろう…と早合点してはいけません。それどころか、まるで正反対なのですから。

は大きな美的なよろこびを得られるものとあてにしていたのである。ところが、彼の傑作とされている『リア王』『ロメオとジュリエット』『ハムレット』さては『マクベス』などをつぎつぎと通読していっても、私はよろこびを味わえなかったどころか、払いのけられぬ嫌悪の情と、退屈さを感じ、…

あれ?少なくとも私は、公の場でシェイクスピアにこんなことを言う人を、他に知りません。飲み屋とかで言っている人は割といますけど。

そしてこの長い論文は、というか、このシェイクスピアへの長い呪詛は、延々とこんな調子で続くのです。

もちろん、トルストイも人の子なので、

養の世界をあげて完璧の極と評されている作品を、取るにたらぬ、ただの悪作とみなしたり、あるいはこの教養ある世界によってシェイクスピアの作品に与えられている意義を無茶なものと考えたりするのは自分の方が気が変なのではないか、と疑惑にかられたりした…

と正直に、フツーの自己不信に陥ったことがあることを、正直に告白しています。

の疑惑は自分がこれまでいつも詩歌の美しさをその形のままでなまなましく感じてきただけにいっそう強められた。いったいなぜ天才的な芸術作品と全世界からみとめられているシェイクスピアの著作が私の気に入らなかったばかりか、いやらしいものになったのか。永いこと私は自分が信じられなかった。

なんて正直な告白でしょう。

そしてここで終わらないところが、偉大な文豪です。

して五十年間には自分をしらべるつもりで、あらゆる可能な形で−ロシア語で、英語で、ドイツ語で、また人からすすめられるままにシュレーゲルの翻訳などで−幾度かシェイクスピアを読みにかかった。そして悲劇、喜劇、史劇をなんべんも読んだが、あやまりなく味わったところはやはり同じこと−嫌悪と、退屈と、不可解−だった。いま、この論文を書く前に、七十五歳の老人である私は、もう一度自分をしらべる気になって、新たにシェイクスピアの全作品をヘンリーの史劇『トロイラスとクレシダ』、『テムペスト』『シンベリン』も含めて残らず通読してみた、そして同じ感じをいっそう強く経験した、が、それはもはや不可解などというものではなく、シェイクスピアが得ている、しかも現代の作家たちをして彼に模倣せしめ、読者や観客にはその美的、倫理的な観念をゆがめさせてまで彼のなかにありもせぬ価値を探しださせているところの偉大な、天才作家という争う余地のない名声がいっさいの虚偽と同じく大きな悪である、という確固たる、疑いない信念だった。

文豪であると同時に性豪でもあったトルストイ、さすがのバイタリティと粘着力です。

くの人はシェイクスピアの偉大さを信じ切っているので、私のこの断定を読んでもそれが正しいかも知れぬとさえも思ってはくれまいし、一顧の注意をも払いはしまい、とは承知しているが、それでも私はなぜ自分がシェイクスピアは偉大な天才どころか、ごく月なみな作家としてさえもみとめられるべきではないと考えるか、という理由をできるだけつとめて明らかにしてみたいと思う。
このためにここでは批評家たちのたいへんがこぞって絶賛をおしまないシェイクスピアのもっとも激賞されている悲劇の一つ−−『リヤ王』をとってみよう。

以下、『リヤ王』が完膚無きまでにけちょんけちょんにされていきます。第1幕第1場から順に、微に入り細を穿ち、ちくちくとダメ出しが、雨あられと!

リヤ王』というドラマはケントとグロスターという二人の廷臣が会話をする場面で始まる。ケントはそこにいる若者を指さして、これはあなたの息子ではないか、とグロスターに訊ねる。グロスターは、この若者を息子だとみとめるだけで赤面したことも幾度かあったが、今ではつらの皮も厚くなった、と言う。ケントはグロスターの言葉が腑に落ちぬ、と言う。すると、グロスターはこの息子を前において、こう言う−−「あなたには腑に落ちなくても、この子の母にはわかりました、そしてお腹が大きくなり、夫を寝床に迎えるよりさきに息子を揺籃に迎えたのです。私にはべつに正式の息子がいます。−−とグロスターはつづける、−−しかもこの子は月たらずで飛び出したのですが、これの母親は美人で、これが出来るまでにはかなりふざけた楽しみもあり(there was good at his making)、そこでわたしとしてはこの子をも認知しなければならないのです」
 これが出である。グロスターのこのせりふの下劣なことはもちろんだが、それはべつとしても、このせりふは高貴な性格を示すべき人物の口にはふさわしいものではない。ある批評家たちの意見では、グロスターのこの言葉は私生児エドマンドが受けている衆人蔑視の気持を示すために言われているのだというが、これには賛成できない。もしそうだとすれば、第一に、父親をして人々の軽蔑を表明させる必要はないわけだし、第二に、私生児だといって自分を軽蔑する人々の不当をなじるエドマンドはそのせりふのなかで父が言ったその言葉にふれるべきである。ところがそんなことはない、だから、芝居のはじめのグロスターのこの言葉の狙いはただ彼には正腹と妾腹の子があったということを観客に滑稽な形で伝えることにあったにすぎないのは明瞭である。

というのに始まり、

ヤ王の言葉がシェイクスピアのすべての王たちが口にしているような大げさな、特長のないものであることはしばらくおくとしても、読者も観客も、王がいかに年とってぼけたにせよ、いままでの生涯をずっと一緒に暮らしてきた悪い娘たちの言葉を信じ、愛娘を信じないでこれを呪って追い出すようなまねができたとは信じられるはずがない。

のあと、道化師が登場して、王とのあいだにこの場に一向にふさわしくない、けっきょくなんにもならぬ、長ったらしい、おもしろいはずでおもしろくない会話がはじまる。
たとえば、道化師がこう言う−−「私に玉子を一つ下さい、そうすればcrown(冠)を二つあげます」。
王が訊ねる−−それはどんなcrownじゃ?」
−−「玉子の半分を二つです。玉子を割って、黄身を食べるのです。おまえさんは自分のcrownを真っ二つに割って、両方とも譲ってしまったときには、自分で驢馬を背負って泥路を歩いたでしょう。黄金のcrown(冠)を譲ってしまったときには、おまえさんのはげたcrown(頭)のなかには知恵があんまりなかったんですね。こんな言い方が勝手放題だというのなら、そう思うやつを鞭で殴ってやってください」
 こんな具合に長ったらしい会話がつづき、観客や読者におかしくもないしゃれを聞かされた時に経験するあの重苦しいぎこちなさを呼び起こす。

二場では(第二幕の)、(中略)ケントが、なんの理由もなしにオスワルド(ゴネリルの執事)を罵倒しはじめ、(中略)貴様をsop o'the moonshineにしてやるぞ、と言いながらオスワルドに自分と闘えと要求するが、このsop o'the moonshineとは、どんな注釈者にも説明のつかぬ言葉なのである。

自然な事件と、さらに不自然な、登場人物の立場にそぐわないせりふで満たされていて…(以下略)

ほうもなく幼稚で、不自然で、そのうえ…(以下略)

のシェイクスピア独特の言葉で、(中略)そのおもな特長というのは、思想が言葉の語呂とか対比とかから生まれる点にあるのである…(以下略)

四幕におけるリヤと娘との場面は、これに先立って三幕にも及ぶ退屈、単調なリヤのたわごとがなかったなら、そしてさらに、これが彼の気持をあらわす最後の場面だったなら、あるいは感激的なものになったかもしれない。だが、これは最後の場面ではなかった。

五幕では、またしても以前のおおげさに冷ややかな、とってつけたようなリヤのたわごとが繰り返されて、前の場面が与えたかもしれぬ、せっかくの印象を台なしにしている。

ヤが八十歳をこえる老齢でしかも病身なのに、コーディリヤの屍体をかかえて登場する。そしてまた例の、駄じゃれを聞かされるときのようにこちらの気恥ずかしくなるような途方もないリヤのたわごとがはじまる。(中略)ついで、(中略)自分は目が悪いと言いながら、そのくせ、いままでずっと気付かずにいたケントをたちまり見破ったりする。

以上に抜粋した以上に、もっともっと、さんざん具体的なけちをつけ、けちの箇所だけで分量は、日本語版(中村融訳、河出書房新社)にして原稿用紙50枚に相当します。原稿用紙50枚、ひたすら『リヤ王』へのダメ出しなのです。なんという絶倫!

代の誰でも、このドラマが完璧の極であるという暗示にかかっていない人なら、忍耐心さえじゅうぶんにあって、これを終わりまで通読すれば、これが完璧の極であるどころか、じつにひどい粗悪な作品であり、当時のある人や一部の観客たちにはおもしろかったかもしれないが、われわれのあいだには嫌悪と退屈以外になにものをもよび起こせないものであることを確信するのにじゅうぶんであろう。

そしてトルストイは叫びます。「君達はみんなマインドコントロールされているんだ!」と。

かし、シェイクスピア崇拝を吹き込まれていないそのような生新な人々は現代のキリスト教世界にはもはやいないのである。われわれの社会や時代の人々は誰もが物心ついた当初から、シェイクスピアは天才的な詩人、劇作家であり、彼の作はことごとく−−完璧の極である、と吹き込まれている。

トルストイは、シェイクスピア賞賛者たちの矛盾をはっきりと指摘します。

べてのドラマの条件というものは、シェイクスピアを賞賛する当の批評家たちによって定められた法則によれば、登場人物達は彼らに固有の性格や、行為や、事件の自然の進展の結果、周囲の世界と矛盾しながらこれらの人物がそれと闘い、その闘いのなかに彼ら本来の特質を表現するような立場に置かれるものである、という。
悲劇『リヤ王』においても、登場人物たちは、外見上は、たしかに周囲の世界との矛盾のなかに置かれていて、それと闘っている。しかし、その闘いは、事件の自然的な進展や人物の性格から生じているのではなく、まったく勝手に作者によって定められたものであり、したがって、芸術の主要な条件をなす幻想というものを読者によび起こすことはできない。リヤには王権を拒むなんらの必要も、原因もない。また生涯を娘たちとともに暮らしたあげく、姉娘たちの言葉を信じ、末の娘の正しい言葉を信じないといういわれもまったくない。が、ここにじつは彼の立場の悲劇性のすべてがつくられているのである。

トルストイは、シェイクスピアのいいかげんさを断じます。

リヤ王』の事件は紀元前八〇〇年のことであるにもかかわらず、登場人物たちは中世期にしかありえぬような条件のなかにおかれている。すなわち、ドラマのなかで活躍するのは王であり、公爵であり、軍隊であり、私生児であり…(以下略)

件の自然的な推移や性格の特質から生じて来ないような立場をでっちあげたり、それが時や場所にそぐわないことなどは、シェイクスピアが特に感動的におもわれるはずの個所へいつも用いるいいかげんな粉飾によって一段と強められているのである。リヤが曠野を走り回っている時の異常なあらしとか、彼が、『ハムレット』のオフェリヤやエドガーの服装の場合もそうだが、なんのためか頭にのせている雑草とか、道化師のせりふとか、覆面の騎士エドガーの登場とか、−−すべてこれらの効果は印象を強めるどころか、逆の作用を生じているのである。「意向がわかると嫌気がさす」とゲーテの言うとおりである。さらにこれもけっして珍しくはないが、これらの明らかにとってつけたような効果のもとで、たとえば、シェイクスピアのすべてのドラマの大詰めなどで死者の屍を半ダースも足をもって引っぱり出したりするに至っては、恐怖や同情どころか、いっそ吹き出したくなってしまう。

ようするに、トルストイはシェイクスピアに、君の芝居はやりすぎでひくんですけど、と言っているわけです。ここに至って、私はトルストイに、親近感をおぼえずにいられません。トルストイは、こっちサイドの人だったのです!

才シェイクスピアは悪作など絶対に書くはずはない、と公認されているので、学識のある人々はその知恵のありたけをしぼって、見る眼にも明らかな、ことにハムレットにはっきりとあらわされている欠点、つまり、主役にまったく性格がないというところになみなみならぬ美しさを見いだそうと躍起になっている。たとえば、抜け目のない批評家たちは、このドラマのなかでハムレットという人物には異常に強く、まったく新たな、深い性格が表現されていて、この人物に性格がないということがすなわちそれであり、この性格の欠如というところにこそ深遠な性格を創造した天才が秘められているのだ、などと公言している。そして、こうきめたうえで、学識ある批評家たちはつぎつぎどしどし本を書く、そこで、性格を持たぬ人間の性格を描くことの偉大さ、重要さをほめたたえ、これを解説するだけで一大図書館が出来ているくらいである。もっとも、批評家の一部には、この人物にはなにか妙なところがあるとか、ハムレットは解けぬ謎だという考えをびくびくしながら表明している者もないではないが、誰ひとり、「王さまははだかなのだ」と、つまり、シェイクスピアは、ハムレットにいかなる性格をも与えなかったし、与えようともしなかったし、それの必要をさえ理解しなかったのは天日のごとく明らかである、と思いきって断言しうる者はいないのである。

かっこいいぞ!トルストイ。勇者トルストイ!

そうか。だが、シェイクスピアの登場人物たちが口にする深い意味をもったせりふや格言などはどうだ?−−とシェイクスピアの礼賛者たちは言うだろう。−−罪についてのリヤの独白、復讐を語るケントのせりふ、(中略)またその他の劇におけるハムレットや、アントニオなどの有名なセリフはどうだ?
「思想や格言が高く買えるのは、−−と私は答えるだろう、−−散文作品、論説、警句集などの場合であり、芸術的劇作の場合ではない。このほうの目的は−−上演されているものに対する共鳴を呼び起こすことにあるからである。したがってシェイクスピアのせりふや格言は、たとえ、そこにはないような非常に多くの深遠、斬新な思想を含んでいたとしても、芸術的な詩的作品の価値とはなりえない。逆にぴったりしない状況のなかで語られたそういうせりふは、芸術作品をそこなうことにしかならないのである。

いいぞ!トルストイ。がんばれ、トルストイ!

…でも引用はもうこの辺で終わりにします。ほとんど全文が痛快なので、本当は全部を引用したいくらいなのですが、そうするとそれは引用じゃなくなっちゃいます。
というわけで、興味を持たれた方、「いや、実はおれも前から、シェイクスピアっていいのか?とひそかに思ってたんだよね」という方は、是非読んでみてください。ただシェイクスピア信者の方、これからもずっと信者でいたい方は、余程の反論の自信でもない限り、読まない方がいいと思います。

私は個人的には、シェイクスピアにここまで中指を立てる人がいたことが、痛快で痛快でたまりません。批判の内容は実は私にとってはどうでも良かったりします。シェイクスピアに盾突くこと自体、それだけでかっこいいではありませんか。

岡田利規(ST通信編集長)


●本文の引用はすべて、河出書房新社刊「トルストイ全集 第17巻」に収録されている『シェイクスピア論および演劇論』より行っています。

●ST通信では、普通の雑誌でもやっているような本の紹介コーナーを、真似してやってみたいと思っています。あなたの知っている、ステージパフォーマンスに関して書かれた興味深い本やWebサイトがありましたら、是非ST通信に教えてください。mail@stspot.orgまで。


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