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| トルストイ『シェイクスピア論および演劇論』の紹介 |
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ここでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』などといった小説で超有名なロシアの作家、トルストイが、実は晩年に書いた論文『シェイクスピア論および演劇論』の中でシェイクスピアをけちょんけちょんにしているという、余り知られていない事実を、紹介したいと思います。 この論文は、 |
| と始まるのですが、そこで、以下にはトルストイがシェイクスピアに捧げる心酔の美辞が流麗に続くのだろう…と早合点してはいけません。それどころか、まるで正反対なのですから。 |
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あれ?少なくとも私は、公の場でシェイクスピアにこんなことを言う人を、他に知りません。飲み屋とかで言っている人は割といますけど。 そしてこの長い論文は、というか、このシェイクスピアへの長い呪詛は、延々とこんな調子で続くのです。 もちろん、トルストイも人の子なので、 |
| と正直に、フツーの自己不信に陥ったことがあることを、正直に告白しています。 |
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なんて正直な告白でしょう。 そしてここで終わらないところが、偉大な文豪です。 |
| 文豪であると同時に性豪でもあったトルストイ、さすがのバイタリティと粘着力です。 |
このためにここでは批評家たちのたいへんがこぞって絶賛をおしまないシェイクスピアのもっとも激賞されている悲劇の一つ−−『リヤ王』をとってみよう。 |
| 以下、『リヤ王』が完膚無きまでにけちょんけちょんにされていきます。第1幕第1場から順に、微に入り細を穿ち、ちくちくとダメ出しが、雨あられと! |
これが出である。グロスターのこのせりふの下劣なことはもちろんだが、それはべつとしても、このせりふは高貴な性格を示すべき人物の口にはふさわしいものではない。ある批評家たちの意見では、グロスターのこの言葉は私生児エドマンドが受けている衆人蔑視の気持を示すために言われているのだというが、これには賛成できない。もしそうだとすれば、第一に、父親をして人々の軽蔑を表明させる必要はないわけだし、第二に、私生児だといって自分を軽蔑する人々の不当をなじるエドマンドはそのせりふのなかで父が言ったその言葉にふれるべきである。ところがそんなことはない、だから、芝居のはじめのグロスターのこの言葉の狙いはただ彼には正腹と妾腹の子があったということを観客に滑稽な形で伝えることにあったにすぎないのは明瞭である。 |
| というのに始まり、 |
たとえば、道化師がこう言う−−「私に玉子を一つ下さい、そうすればcrown(冠)を二つあげます」。 王が訊ねる−−それはどんなcrownじゃ?」 −−「玉子の半分を二つです。玉子を割って、黄身を食べるのです。おまえさんは自分のcrownを真っ二つに割って、両方とも譲ってしまったときには、自分で驢馬を背負って泥路を歩いたでしょう。黄金のcrown(冠)を譲ってしまったときには、おまえさんのはげたcrown(頭)のなかには知恵があんまりなかったんですね。こんな言い方が勝手放題だというのなら、そう思うやつを鞭で殴ってやってください」 こんな具合に長ったらしい会話がつづき、観客や読者におかしくもないしゃれを聞かされた時に経験するあの重苦しいぎこちなさを呼び起こす。 |
| 以上に抜粋した以上に、もっともっと、さんざん具体的なけちをつけ、けちの箇所だけで分量は、日本語版(中村融訳、河出書房新社)にして原稿用紙50枚に相当します。原稿用紙50枚、ひたすら『リヤ王』へのダメ出しなのです。なんという絶倫! |
| そしてトルストイは叫びます。「君達はみんなマインドコントロールされているんだ!」と。 |
| トルストイは、シェイクスピア賞賛者たちの矛盾をはっきりと指摘します。 |
悲劇『リヤ王』においても、登場人物たちは、外見上は、たしかに周囲の世界との矛盾のなかに置かれていて、それと闘っている。しかし、その闘いは、事件の自然的な進展や人物の性格から生じているのではなく、まったく勝手に作者によって定められたものであり、したがって、芸術の主要な条件をなす幻想というものを読者によび起こすことはできない。リヤには王権を拒むなんらの必要も、原因もない。また生涯を娘たちとともに暮らしたあげく、姉娘たちの言葉を信じ、末の娘の正しい言葉を信じないといういわれもまったくない。が、ここにじつは彼の立場の悲劇性のすべてがつくられているのである。 |
| トルストイは、シェイクスピアのいいかげんさを断じます。 |
| ようするに、トルストイはシェイクスピアに、君の芝居はやりすぎでひくんですけど、と言っているわけです。ここに至って、私はトルストイに、親近感をおぼえずにいられません。トルストイは、こっちサイドの人だったのです! |
| かっこいいぞ!トルストイ。勇者トルストイ! |
「思想や格言が高く買えるのは、−−と私は答えるだろう、−−散文作品、論説、警句集などの場合であり、芸術的劇作の場合ではない。このほうの目的は−−上演されているものに対する共鳴を呼び起こすことにあるからである。したがってシェイクスピアのせりふや格言は、たとえ、そこにはないような非常に多くの深遠、斬新な思想を含んでいたとしても、芸術的な詩的作品の価値とはなりえない。逆にぴったりしない状況のなかで語られたそういうせりふは、芸術作品をそこなうことにしかならないのである。 |
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いいぞ!トルストイ。がんばれ、トルストイ! …でも引用はもうこの辺で終わりにします。ほとんど全文が痛快なので、本当は全部を引用したいくらいなのですが、そうするとそれは引用じゃなくなっちゃいます。 というわけで、興味を持たれた方、「いや、実はおれも前から、シェイクスピアっていいのか?とひそかに思ってたんだよね」という方は、是非読んでみてください。ただシェイクスピア信者の方、これからもずっと信者でいたい方は、余程の反論の自信でもない限り、読まない方がいいと思います。 私は個人的には、シェイクスピアにここまで中指を立てる人がいたことが、痛快で痛快でたまりません。批判の内容は実は私にとってはどうでも良かったりします。シェイクスピアに盾突くこと自体、それだけでかっこいいではありませんか。 岡田利規(ST通信編集長) |
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●本文の引用はすべて、河出書房新社刊「トルストイ全集 第17巻」に収録されている『シェイクスピア論および演劇論』より行っています。 ●ST通信では、普通の雑誌でもやっているような本の紹介コーナーを、真似してやってみたいと思っています。あなたの知っている、ステージパフォーマンスに関して書かれた興味深い本やWebサイトがありましたら、是非ST通信に教えてください。mail@stspot.orgまで。 |
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